田中 真二監督
2005 - 2006 徳島ヴォルティス在籍
- PROFILE
- 1960年9月25日生まれ
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現役時代は日本代表にも選出されたDFで主にサイドバックを主戦場とした。長く日産自動車でプレーしたのち、Jリーグ開幕を浦和レッズで迎えた。京都サンガで1994年に引退後は指導者の道に。1999年に大塚製薬のコーチから昇格する形で監督に就任し、Jリーグ参入後の2006年まで監督を務めた。
私が徳島に来た当時から、クラブは力を入れていて上を目指していましたよ。外国籍の選手や指導者も呼んでいて、サポーターの活動も活発になって機運も高まっていたのを覚えています。でも、会社として総合的に判断をして、一時は方針が変わった時期もありました。企業チームとして1からの再スタートをして出直すことになり、その時にコーチだった俺に監督の話をいただきました(1999年に当時JFLの大塚製薬の監督に就任)。
Jリーグ参入直前に2年連続でJFL優勝をしたけど、1度目に優勝した2003シーズンが始まる前に具体的な話はまだなかった。そして迎えた2004年は、JFLで2位以内に入ることができなければ上がれないというのが当時の条件だった。そのときのプレッシャーは半端なかった。使命感というか、サポーターも前年に優勝しているから盛り上がっているし、すべての土台も整っているし、誰もが「Jリーグに上がる」と思っている中で戦っていた。俺のサッカー人生を振り返ってもこのような状況でシーズンを戦う経験ができたことは指導者としての財産になっているよ。選手も精神的にきつかったはず。本当に激動だったよ、今思うとね。周囲の期待に応えられたことに、使命を果たせたことに、腰を抜かすくらいにホッとしたよ。やっぱりみんなの力だよね。選手たちが頑張ってくれた。当時で言えば斬新な戦い方だったと思うけど、選手たちが理解してくれて着実にやってくれた。だから選手たちに俺は今でも感謝してるよ。
今は栃木県に小山市という所があるんだけど、そこの街にあるクラブで小学生のジュニアクラスや、同じクラブ内の障がい者サッカーにかかわらせてもらっている。
俺自身も徳島でいい時と悪い時を経験して、指導者としていろんなことを経験させてもらったことが今にもつながっている。あの時のヴォルティスでやっていたことが今でもベースになっている。昔やっていたことでも今やってみると新鮮だったりもするし、考えてみるとヴォルティスでの経験が俺の今のベースになっている。サッカー人生もそうだし、徳島での生活もそうだし、俺の中では何て言うのかなぁ、重要な時期だった。
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